ガラスのくま・前
音楽室の重い重い扉を開けると、ピアノの音が飛び込んできた。由紀の音だ。そう思った瞬間に心臓が大きくジャンプして、恵は逃げ出したい衝動にかられた。
大きなピアノを弾く由紀の周りには、クラスの女の子たちが集まっていた。少し離れたところにいる男の子たちも、視線は由紀の方向だ。それだけでも重い気分になるのに、大きな窓から昼過ぎの日光が差し込んでいることは、恵をさらに憂鬱にさせた。まるで明るい光が、由紀をきらきらと温かく包みこんでいるようだったので。
「あ、メグ来た」
扉の前で立ちつくしている恵を見つけた一人が、ひらひらと手を振った。言った。
「こっちで由紀のピアノ聴こうよ」
それを聞いて、恵はとっさに笑顔を作った。心臓がまだ体中を飛び跳ねているのを感じつつ、恵は集団に加わった。
由紀のピアノは綺麗だ。春の公園に咲く小さな花のようで、秋のバス停に吹く少し冷たい風のようで。
音楽の授業前の休み時間。先生が来るまで由紀がピアノを弾いているのはいつものことで、クラスの皆が「すごいよね」とか「天才じゃん」とか言いながら聴いているのもいつものこと、恵が作り笑いをするのもいつものことだった。
由紀は、最近肩あたりまでのびてきた黒髪を揺らす。皆、そんな由紀を、見ている。この時は由紀の幼馴染の恵など付属品でしかないことくらい、恵自身よく分かっていた。
もしも、皆が。皆が、由紀もあたしも同じピアノ教室の生徒だと知ったら、どんな顔をするだろうか。恵は思った。そしてその教室の先生が、あたしの母だなんて知られてしまったら、あたしはきっと付属品ですらなくなる。
そこまで考えたとき、恵の心臓はさらに強く暴れ始めた。血管が大きく波打っていて、耳から入ってくるピアノの音はその波に逆らって自己主張をする。この勢いで心臓が飛び出してしまったらどうしよう。眼の奥のほうが、きゅうん、と見えない音をたてた。泣いちゃだめだ、泣いちゃだめだ。そう自分自身に言い聞かせている自分は、なんだかみじめだと心の片隅で思った。
「由紀ってどこでピアノ習ってるのかな」
このへん? と隣の子が呟いて、恵は現実に引きずり出された。周りの子たちが「さあ?」と答えるなか、チャイムが鳴る。ここに来たのはほんの二分前なのに、口から吐き出した息は重量を増していた。
恵にとって音楽は苦痛だ。でも昔は……そうでもなかった、いや、むしろすごく好きだった。幼いころから音楽は常にそばに存在していて、母から教わっていたピアノも、新しい感情を知るたびに上達した。同じようにピアノを習っていた由紀のことも、今のように苦痛になるなんてことはなかった。――絶対、なかったのに。
由紀がピアノを弾く姿が、恵にとって苦痛になり始めたのはたぶん、由紀のほうが上手いと気が付いた時からだ。それがはっきりいつなのかは覚えていないが、確か中学で合唱部に入ってからだったと思う。そのことから由紀はよく音楽室でピアノを弾いていて、皆に認められていたから。
はじめは恵も一緒にピアノを弾いていたが、すぐに気が付いた。皆が見ているのは、ピアノを上手に弾く由紀であると。それで、やめた。
「で、合唱コンクールの伴奏やりたい人?」
先生の言葉で、恵の意識は音楽室に戻された。黒板と先生を丸く囲むようにしてイスに座り、黒板にはクラスの合唱曲のタイトル。夏休みが終わった九月の文化祭で行われる合唱コンクールについての話し合いの真っ最中で、今は……伴奏者を決めていた。
伴奏。この二文字は恵の心の奥の奥に突き刺さった。ずきん、と音がした。思った。あたしなら、出来るかもしれない。
皆、黙っていた。黙りながらも、ちらちらと視線をある人物に向けている。それが誰かと考えることは、やはり恵にとって苦痛に値した。
しん、とした空間で、クラスのムードメイカーの山下が言った。「由紀がいいと思うけど、俺」
……拍手が、響いた。何人かの嬉しそうな声も混じって、とても賑やかになった。恵の耳には酷く賑やかに聞こえた。気付くと自分も手を叩いていた。
ちらり、と由紀を見る。由紀は、笑っていなかった。理解できない。……理解、できない。
もしかしたら、合唱コンクールの伴奏なんて由紀にとってはあまり意味を持たないのかもしれない。別にやりたいわけじゃないけど、やってもいい。それでいて心のどこかでは面倒だな、って。そういうレベルなのかもしれない。理解できない。本当に、由紀が、そう思っているのだとしたら、あたしは、由紀を、好きになんてなれない。
さっき恵の中で傷ついた部分が、ぎゅうううん、と気持ち悪い音をたてた。その音に合わせて喉の奥が縮小して、息苦しくなった。息を吸い込んでも、吸い込んでも、酸素が上手に肺まで届いてくれない。
すっかり騒がしくなってしまった空間の奥底で、チャイムが聞こえた。先生のピアノに合わせて皆が適当な礼をして教科書を整理し始めるなか、恵はその二倍の速さで荷物をまとめた。いつもは由紀と一緒に教室へ戻るのだが、気乗りしなかった。さっさと一人で戻ってしまおうか、とも思う。でも、それをしたら、由紀はどう思うだろう。
恵はゆっくりと視線だけを由紀に向けた。少し離れたところでちょうど教科書を鞄に入れ終わった由紀も、恵を見ていた。
「次の授業、なんだっけ?」
由紀は小走りで恵のそばに来ると、言った。
「確か……古典」そう恵がうつむいて答えると、由紀は「あ、そっか」と小さく笑った。
こういう時に恵は思い知るのだ。結局自分は弱虫で、どんなに傷ついても、いつも通りであることを。いつも通りにしてしまうことを。きっと由紀は、知らない。
「小学校のころにさあ」教室まで戻る廊下で由紀が唐突に言った。「動物園行ったときお揃いで買った人形あったじゃん?」
「あのガラスのくまのやつだよね」
答えながら恵は、たしか机の上に飾ってあるはずだな、と思う。
それに由紀は何度か頷いて、笑った。「あのメグに似てるやつ」
えー、と恵は顔をしかめた。実際、小学校の遠足で行った動物園、そこでその小さな人形を買ったときも由紀は言ったのだ。なんか顔つきが似てるよ、しあわせーって感じ、うん、いいよ、なんかきらきらしてるしさ。
「それがなに?」
笑いだして止まらない由紀を恵が促すと、「なんかあの人形、従姉妹のサキちゃんが欲しがっちゃって」と息を吐いた。
「まあ、そういうの好きな年頃だもんね」
そう恵が苦笑いで言うと、由紀は「でもあげたくないんだよなあ」と薄く笑う。それが恵にはなんだか深刻な告白に聞こえた。