ガラスのくま・後
さよーならー、と小さな声で呟き帰りのSHRが終わる。がたんがたんと騒音を立てて机を片付ければ、掃除当番でない恵は今日もう自由だ。由紀が扉の前でジャージ袋を邪魔そうに揺らして待っている。ふ、と目が合うと、由紀は「帰ろ」と優しく笑った。いつも通りだ、と恵はそれを見て安心する。
「今日の古典でさ、山下くんが変な声だしたじゃん? あれね、山下くん爆睡してたから、イス軽く蹴ってみたらさ、がばッて起きて……うわぁ、って。あの人ほんと、笑える」
由紀の話に適度な相槌を打ちながら、恵は学校の前の坂をリズムよく踏む自分の足を見つめた。
「由紀のこと伴奏に推薦したの、山下くんだったよね?」
何も考えずに口に出して、恵はすぐに後悔した。馬鹿だ。そんなことを聞いて、話題が音楽のことになったら、傷つくのは自分なのに。
由紀の顔が見れなかった。くだらないことで、しかも答えは分かりきっているというのに、返事を聞くのが怖かった。由紀の口から聞くのが、怖かった。軽く肯定して、終わってくれればいい。「うん、そう」って言って、「それでさ」ってまた古典の話に戻ればいい。心の底から恵はそう思った。
由紀は小さく息を吸って、言った。「そうだっけ」
は。恵の心の中で声がした。同時に、ああそうか、と思った。どうでもいいんだっけか、由紀にとっては。
こんなの、だめだ。もうだめだ。本当に、だめだ。恵は脳内の警告音を聞いた。それは、もういいじゃん、というニュアンスが含まれた音だった。
「……なに、それ」
絞り出した声は真っ黒な湿気を含んでいて揺れていた。
「なにが?」由紀はあいかわらずなんでもないように聞き返してきた。こういうところも、全部、全部――。
「ちょっとは考えてよ」全部、全部こめて、一気に言った。「もういいよ。ほんとにもういい。あたしもう、だめだ」
由紀の足がぴた、と止まった。それにつられて恵の足も止まった。視線が交差する。どきん、と目が合った瞬間、熱くなって恵は逃げ出した。青空の下で、これで自由になったのか、と小さく思った。
「でさ、ケンカした」
「え。あんなに仲いいのに」
「仲いいかもだけどさぁ。なんていうか……聞いてくれる?」
「うん。もちろんもちろん」
「……こうさぁ、由紀ってピアノ上手いじゃんか。それは分かってんだけど、分かってんだけどぉ、……それが嫌みたいな」
「いや、なの?」
「由紀が嫌なあたしも嫌だし、ピアノが嫌なのかな……。分かんないけど、あたし、由紀のこと嫌いなのかも」
「……へぇ。ふぅん」
中三の冬にも由紀とケンカした。でもそれが初めてじゃない。案外あたしと由紀ってケンカしてるんだなぁ、と恵はしみじみ思った。
誰かに相談したのは確かこのときが最初で。それからもこんな相談するもんか、と強く誓った。ケンカした帰り道に、同じクラスの朋ちゃんにばったり会って、気を許して話したのだ。自分の気持ちを正しく表現できない自分に嫌気がさしたのだけれど、もっと嫌になったのは朋ちゃんの瞳だった。一通り話して朋ちゃんを見たとき、とっても腑に落ちない顔をしていた。その理由に恵はすぐ気付いた。とてつもなく、すごくすごくすごく嫌な理由だった。朋ちゃんは、あたしよりも、ほんの少しだけ、由紀の、ほうが、好きなんだ。
あのときの朋ちゃんを思い出した。そしてあのとき、心の底から由紀のことを嫌いになったはずの自分を思い出した。視界が滲んだ。信号のライトが揺れた。すれ違う人と目が合って、ぎゅ、と目を強く瞑ってから道路を渡った。
「ただいま」
そういつもより暗い声でいうと母がリビングで楽譜を散らかしていた。リビングの隣のピアノ教室の方からはまだたどたどしいピアノの音が聴こえてくる。
「何してんの」
教室ほっといていいの、と言うと母は、あらお帰り、と笑う。
「コンクールの楽譜探してるのよ」
ああそう、へえ、と恵がなんとなく相槌を打つと、「あ、そういえば」と母は手を叩いた。
「由紀ちゃんに次のコンクールの曲、難易度あげてみない、って伝えてみてくれない?」
早い方がいいからねえ、とにっこりする母の声が言葉が仕草が、恵にはどうしようもなくいらいらと思えて仕方がなかった。うん、分かった、そう恵もにっこり笑って答える。その笑顔を張り付けたまま、恵は階段を上がって自分の部屋に入った。鞄が肩から床に音を立てて落ちる。ドアの閉まる音がやけに荒々しく聴こえる。
小さくピアノの音が聞こえる。クラリネットが壊れてしまった少年のうただ。
ドとレとミの音が出ないクラリネットを結局少年はどうしたのだろう。
自分の部屋の隅っこ。練習用の小さめのピアノの前に恵は座った。なぜか酷く懐かしい感じがした。そっと鍵盤に指を置く。しかしどんなに鍵盤を叩いても、ドもレもミも全部耳を素通りして聴こえない。
(何の音が聴こえなくても、少年はクラリネットを大事だと歌う。恵だって後悔はしている。反省だってしているのに)
堪らなくなって制服のポケットから携帯を取り出し、由紀にメールを作った。送信ボタン。
「今日はごめんなさい。伴奏頑張ってね。応援してるよ!」
メールは簡単だ。簡単な言葉を並べれば、相手も大抵喜ぶし、自分も傷つかなくて済む。ガラス細工の世界で生きるために、これは必要なことなのだ。友情も勿論自分も、傷つかずに生きていたい。なのにどうして、涙は、止まらないのだろう。
傷付かないように、守らなくては――。
着信音が鳴る。メール受信画面。
「大丈夫だよ。気にしないで。伴奏頑張るね。
あと、サキちゃんにはあげないことにしました」
恵は一度大きく呼吸をし、鍵盤をさらに強く叩いた。
「やっぱり、メグに似てると思うんだけど、どうかな?」
夕陽を受けて机の上、ガラスのくまがきらきらと歌っている。
(Fin)