1.聴こえる
【サクラノキセツニナリマシタネ☆】
天気予報のアナウンサーがきらきらと笑えば、真向いに座る弟がそわそわと息を吐く。きらきらとそわそわ。そういえば私は最近笑わない。教室で多用されるような誘導された安っぽいものではなく、そんな仕様のないものでは決してなく、もっと何かをどうにかできるような、誰かを許す時の優しさと酷似した微笑。そもそも私は真剣に他人を許した事があっただろうかとそれすら疑問である。
【ジュケンセイノミナサンハガンバッテクダサイネ☆】
相変わらずのきらきらを弟は一瞥し、目の前に置かれた朝食の米の一粒一粒をじろりじろりと睨んだ。ガンバッテクダサイネー、と私が真似をして呟くと、弟は「なんだよ」と低い声で言い、米粒を睨むよりもぞんざいな眼で私を見る。
合格発表日の弟というのは実に不機嫌な生物(というかもともと咲也は不機嫌な弟であって私も不機嫌な姉だった)で、リビングの時計はじくじくと時を刻んだ。母親は慌しく車の鍵を探しており、父親は出張で九州にいたので、二人だけがその不機嫌な時間を漂っていた。私は高校が休みなのでゆるゆると卵焼きを口に運ぶ。母親の作る卵焼きはいつも甘く、弟は今日も手をつけない。代わりに豆腐とわかめの味噌汁を啜る。
弟は米と味噌汁を身体へ流し込むと、黙ってリビングから出て行った。仕方ないので私も残った食器を台所へ運び、自室へ戻ることにした。誰もいなくなったリビングに残っていたのは不機嫌さだけで、きらきらもテレビの電源を切ってしまえばもう居ない。
今日は駄目だな、と思う日がある。それは最近ずっとだし、所詮自分への慰めでしかないことくらい重々承知なのだけど、そうすると私は(占いが占いたらしめているのと確かに似て)なんとなくラクに生きることが出来る。
しん、とした部屋の中で私は弟を乗せた車の音を見送り、そこからやっとヘッドホンを付けた。圧迫感。右手の親指を動かせば新しい音。音楽は時間をただ流れるための道具なので、適当に選んで適当に聴く。追っかけにしているアーティストも特に思い入れのある曲も無く、ただ時間と共にシャカシャカ。シャカシャカ。人にやさしく。ブルーハーツ。甲本ヒロトの声とシャカシャカ。ヘッドホンの向こうでヒロトの叫ぶ「頑張れ」は応援ではなく祈りなんじゃないかと思う時が確かに、ある。その祈りは駄目な日に聴くと一層辛い。そもそも私は優しい言葉が苦手で、かけるのもかけられるのも苦痛で、だから「頑張る」なんておぞましいことこの上なく、私をさらに駄目にしていく。
ヒロトは弱者のための不器用な神様、か。ロックを掲げてやってきたにゅーひーろー、おーいえー。
そこまで考えたとき、ふと視界の端で携帯のネオンサイン。赤、黄、オレンジ、黄、オレンジ、赤。液晶を確認して、開く携帯。
「あ」
「なにー」
「おはよお」
「うん、なにい」
「なにって今日の約束あったじゃんー。起きてるのかなあって」
「ああそう」
「うん。起きたあ」
「起きてる起きてる」
「なら良かったあ」
「うんちゃんといくから、そんじゃ」
「はあいそれじゃ、ま
また後でねえ、を遮って、携帯を閉じる。液晶に「岡崎裕香」の名前が点滅して、消える。また後で、私は裕香と桜を見に行く。写真部部長の裕香に連れられて、幽霊部員の私は桜の元へ、ずっと触ってすらいないカメラを持って行く。
折角さあ。裕香は言う。綺麗なんだから、行こうよお。
今年の桜は、例年にも増して綺麗だと、朝のきらきらも言っていた気がする。その桜の一瞬を切り取るため、綺麗なものを永遠に閉じ込めるため私たちは行く。
ヘッドホンから新しい音。桜、さくら、サクラ。出会いと別れの綺麗な歌。いつかまた会えるよ、だから忘れないで、お互い頑張って、頑張って、
「だめ。寒気がする」
搾り出した声は音楽に邪魔されて耳には届かない。音楽の奥で低く低く滲むだけだ。その感覚が愉しくて、あ、あ、あー、と繰り返す。傍から見たら私はどんな人間なんだろうなんて考える不安も混ぜてしまって。大丈夫、声は音楽に滲むだけだ。私の耳の穴から入り込んでくることはない、安心感。それは少し、愉しい。
なるほど、そういう意味では音楽も重要なのかもしれなかった。