2.見える

 緊張感が市営バスに詰め込まれて運ばれている。座席は中学生達に占領されてしまっていて、仕方なく吊り革を掴むと、身体は運転手の自分勝手な運転のせいで前後に揺らされた。ゆるゆると呼吸。吸い込んだ空気の中には確実に中学生達の不安だとか淡い期待だとかが含まれていて、吐き気がした。
 そもそもカメラを無くしたのが悪い。ずっと使っていなかったから、てっきり部屋の中で眠っていると思っていたのだ。カメラ無い、と裕香にメールを送ると、部室の持ってけばいーじゃんっ(はあと)、と返ってきて更にげんなりした。
『それに、合格発表の茶々入れとか、したくない?』
(別に)
『あとー、今部室に飴とかお菓子いっぱいあるよー』
(別に)
 興味の無いものに夢中になれってのは無理な話で。大体、休みの日にわざわざ学校に来いってのも酷い話だ。なんて、言ってしまいそうになるのを堪え。
 これを言ってしまったら、私は裕香に負けてしまう、気がする。裕香は確かにやさしい。愚痴も悪口も言わないお節介が裕香だ。やさしさの押し売り、悪気無し。私たちが中学生だったあの日、吹奏楽部に入部したばかりだったあの日、初めて出会った時からそうだった。以来、私は裕香のやさしさに甘え、うんざりし、振り切れない。しかし果して、
「イワキエキマエ、イワキエキマエ」
 ヘッドフォンの向こう側から聴こえる声、音。目の前に座る中学生の女の子の真白な指がボタンを押した。トマリマス、と、またバスの中の緊張感が、増す。

 そこは、明らかに異質だった。校門をくぐり抜けると、人混み、見慣れない制服、部活勧誘、喜び。すれ違った親子の母親が俯いて歩く息子の髪を撫でた時、吹奏楽部のシンバルが、鳴る。
 そりゃあ、勝った人間は幸せに笑えるでしょうよ。それでさ、負けた人間だけそれを静かに静かに引きずって。ずるずるずるずる、重くて、気持ち悪くて、不自然に笑う。でも、それを口から吐き出したら、本当に負けてしま、う?
 すっげー、光景。つい、そう心の中で呟いた。人の勝ち負けが決められる瞬間を見たのは、それをそうと意識してからは初めてだった。息が重くなる。吸うのも吐くのもだ。
 重量を増した身体を引きずって、昇降口へ入る。人の気配の無い校舎内に、下駄箱の扉を閉める音が一瞬騒々しく響いて、どきりとする。それから、誰もいない廊下に響く足音。どきり、どきり。
 久しぶりに開ける部室のドアは、相変わらず重く、がらがらと音をたてながら開いた。中は汚い。お世辞にも広いとは言えない部室の真ん中にある大きなテーブル、その上に部員の現像した写真だとか、コンクールの応募要項だとか、ポッキーの空き箱だとが積み上げられている。お菓子ないじゃん、と、ため息を一度だけ。
 貸し出し自由のカメラを探すために、奥にある埃かぶった棚をあさる。しかし出てくるのは、いつかの先輩が残していった油絵の具だったり、青ボールペンのキャップだったり、お菓子のおまけだったり、そういうガラクタばかりだった。カメラもないじゃん、と、またため息を吐こうとした時、壁に掛けられたホワイトボードに眼が留まる。
『目指せ、全国コンクール入賞★』
『新入部員二桁欲しい―。笑』
 白い板に書き込まれた、落書きたちを追う。そんなに部室に入らねえだろ、と、小さく苦笑いした眼に止まる、文字列。
『           』
 ただ、ただ、そこに書かれた裕香の。筆跡、☆、なにかのマンガのキャラクター、そのひとつひとつが黒黒と眼に焼き付いて、離れない。
 嫌だった。
 ただ、ただ、嫌だった。

 一体いつから、何が気に入らなかったのか。私たちが中学生だったあの日、吹奏楽部に入部したばかりだったあの日、初めて出会った時からもしかしてそうだったのか。
 抱えたクラリネットの重量感が増していく。その重さに負けないように、頑張ろう頑張ろうとずっと念じていた。それは確実に祈りだった。それでいて、響く音はどこまでも正直だ。だんだんと私のクラリネットは澄んだ音を出せなくなった。なのに、隣で裕香は笑う。
「天気がいい日は、あそこの山が綺麗に見えるの。そう、あれ、あれね、で、あれに向かって吹くの。すごく気持ち良いんだあ」
 私はクラリネットから手を離した。裕香が不思議そうな眼で見るから、中学でオシマイにするあはは、って作り笑いまでした。強がってやった。今では思う。あの頃の自分は、強がれるだけまだ幸せだった。
 裕香は確かに、やさしい。今まで、私は裕香のやさしさに甘え、うんざりし、きっとこれからも振り切れない。しかし果して、
 私は、裕香を すき なのだろうか。

 ――衝動。
   手が伸びる。
   親指。
   ホワイトボード。
   少し力を込めただけで、消えてしまう文字列。
   がらがら。
   重いはずの扉。
   背中に、風。
   心臓。
   止まる。
私は一瞬で振り向いた。背中の辺りが急速に熱を帯びて、心臓が倍速で身体中を叩く。脳内でシンバルが、鳴る。
「外、すごくない?」
 私の視線の先で第一声、裕香はそう言った。正確には私が見ていたのは裕香の右手で、その手はなんでもないように鞄を掴んでいる。
 あ、うん、すごかった。私はそんな感じのことを応えながら、ひたすら自分の親指がじくじくするのをどうにかするのに必死になっていた。
「カメラあった? そこの棚とか」
 そう裕香が私の後ろにある棚を指さすので、私はめいっぱい首を動かした。あー、なかった。うん、探したんだけど。そう言うと、あーそっかじゃあどこだろ、と裕香も首を傾げる。裕香の右手は鞄を離して、机の上をあさった。ないねえ、と言いながら裕香はだんだん私の方に近づいてきて、私は咄嗟にホワイトボードに向き直った。中途半端に消えた、文字。
「汚いよねえ、部室。掃除しなきゃだな、これは、うん」
 苦笑いした裕香が、ホワイトボードに視線をやったのが分かる。こんなに部室に入んないよねえ、と笑いながら文字列を指差していく。そのまま、当たり前の流れで。
「ああ、消えてる」
 そう一言だけ言った。別段感情も無く、ただ文字が消えているという事実だけを指示したような声色だった。私の口も動く。
「ほんとだ、消えてる」
 私の声は裕香のそれに比べるとずいぶん不自然に感情が籠っているように思った。それに対して裕香は、まあ消えるよねえ、と呟いて、また机の上をあさり始めた。
 それからしばらく、裕香が「あったあ、紙に埋まってたよお」と言うまで、私たちは黙黙とカメラを探していた。