3.呼ばれる

 長い長い階段を上りきった時、空がぐんと近づいた。上っている間、私たちはずっと無口で、足もとばかりを見つめていた。私も裕香も運動はあまりしないよな、と考えて、でも昔、クラスリレーの補欠に一度だけ選ばれたのも、一昨日の体育のバスケでシュートを決めたのも裕香だったことを思い出して、息をするのが辛くなる。
 駅の近くにある公園は既に寂れてしまっていて、塗装の禿げたブランコが静かに揺らされていた。朝のきらきらは、桜の季節です、なんて笑っていたはずなのに、桜はまだちらりちらりとしか咲いていなかった。
 ふいに、右ポケットで携帯が震える。受信メール、一件。
『咲也、落ちちゃいました……』
 心臓が硬直する。隣では裕香がさっそくカメラを鞄から取り出しながら、ちょっと時期早かったかなあ、なんて笑う。私の頭の中には弟の顔ではなく母親の顔ばかりが浮かんでいた。弟を慰める母親の顔だ。
 私はなんて声をかけたらいいのだろう。考えても、浮かぶ励ましの言葉はどれもこれも白白しい。無理に考えれば考えるほど、そういえば私は最近笑わないし、誰かを許したことすら曖昧だったということまで思い出してしまい、憂鬱になる。
 かしゃり。
 隣からシャッター音が聴こえて、目をやると裕香が空に向かってカメラを構えていた。ああ撮ってるんだ、と声をかければ、うんせっかく来たんだし、と明るい声が返ってくる。私は鞄の中で沈むカメラの重さを感じながら、ただそれを見つめていた。

「でも、あったかいし、気持ちいいねえ」
 一通り写真を撮った後、そう言って裕香はテーブル付きのベンチに座った。私もその反対側に座る。しばらく裕香はカメラをいじると、ねむくなっちゃったあ、と呟いて、テーブルの上に鞄を載せ、その上に自分の頭を置いて目を閉じた。私も真似をする。

 それで、夢を見た。
 私は相変わらず一人の少女で、立っている基盤は不安定にぐらりぐらりと揺れていた。ただ、揺れているのは基盤だけで、私の身体は真直ぐ突っ立っている。そんな矛盾も夢だからか、と納得できるほど私は冷静だった。
 見渡せば私は桜の木に囲まれていて、しかもその一本一本が満開なものだからつい、綺麗だなあ、なんてため息を吐いてしまう。
 ひらり、ひらり、と。吹いていない風に揺らされて桜の枝が震えると、そこから花弁が降ってくる。ひらり、ひらり。ゆっくりと降り注ぐ花弁のひとつが私の足元へ静かに着地した。そこでやっと気がつく。降っているのは花弁ではなかった。
 ――写真だ。
 私は今、責められているのかもしれない、とやはり冷静に思った。降り注ぐ、誰が撮ったのかいつ撮ったのかも分からない写真に囲まれて、私の心臓はきりきりと痛む。
教室。
              青空。
     体育祭。
                      音楽室。
            カメラ。
   クラリネット。
                  春。
 誰かが私の名前を呼ぶ。その声はどう考えても裕香の声で、私はいつも裕香に呼ばれていたんだな、と漠然と思った。
 あの時、ホワイトボードの消えた文字を見た時。裕香は多分、私の指に気づいていた。なのに、何でもなかったように、何も気にしてなんていないみたいに、私の前で笑っている。私を、許してくれているみたいに、笑う。
(うそだ。傷付いたくせに)
 それからやっと、私は泣いた。

 裕香が私の名前を呼ぶ。裕香の優しい声に耐え切れなくて、どうしても耐えきれなくなって、私も、ゆうか、ゆうか、と口を動かした。それなのに、どんなにどんなに頑張っても、私は嗚咽を止められない。

 はる、はる、
 ぼんやりとした頭の中に裕香の声が滑り込んでくる。やっぱり私は呼ばれている、と思って目を開けると、裕香が「もお、はる、ほんとに寝ちゃってたのお、」と笑った。
 あー、ごめん、寝てた。そう答えながら私は、携帯を開く。画面に表示されたメールはあんな夢を見た後でもどこも変化はせず、弟は不合格のままだった。
「んーどうする、帰る?」
 裕香は私に声を掛けながら既に鞄を抱えていて、私も特に写真を撮ろうなどという意欲は沸いてこなかったので頷いた。
 来たときよりも少し冷たい風に吹かれながら、私たちは長い長い階段を下りていく。ローファーが地面を叩く一定のリズムが、いつか聴いた桜の歌になんとなく似ている気がして、私はそっと口ずさんだ。裕香も歩調を合わせてくれる。嫌いだった歌が、優しく優しく耳に入り込んでくる。ヘッドフォンを外すと、世界はこんなに優しい。
「咲也がさ、」階段を下りきって、私は言った。「だめだったんだって」
 裕香が小さな声で「受験?」と言ったので頷く。すると裕香は一度驚いた顔をして、それから本当に、本当に悲しそうな顔をした。
「そっかあ、だめだったんだ」
 そっと風が吹いて、裕香のスカートを優しく動かす。
「だってあんなに頑張ってたのにねえ」
 私は裕香の口から流れ出る言葉に頷きながら、私はきっと裕香には敵わないんだろうなあ、と思った。ただ、裕香に負けた、とはなぜか思わなかった。
「でもどの高校行ったってさ」
 裕香はいつものように優しく笑って、それから続けた。
「結局、自分は自分、だよねえ」
 しばらくして、私は再び嗚咽した。