どこかでだれかが
一、教室と誘惑
……つまんない。
授業ってやつはそうじゃなくても睡魔との戦いだっていうのに。昼休みが終わってお腹いっぱいだっていうのに。ちょうどいい感じに温かい陽射しが、この窓側の席に降りかかっているっていうのに。「今日はもう疲れただろうから、ゆっくり休みなさい」って声まで聞こえてきてるっていうのに!
恐ろしく、つまんない。目の前の英語教師は男性特有のしっぶい声で呪文をぶつぶつ呟きながら、黒板と向き合っている。それがまた、そりゃあもう、本当にどうしようもないくらい……睡魔を誘い込んでいるのだ。
仕方なく(そう、仕方なく)あたしは目を伏せた。それから机に肘をついて肩の力を抜く。教科書もノートも開いてあるし、普段の授業態度は悪くないし、そんなにすぐには注意されないだろうし。
睡魔の誘惑にあっさりと……じゃなくて、仕方なく白旗を上げたあたしの耳には、先生のしっぶい声の子守唄とチョークが黒板を叩く音だけが聞こえていた。
二、図書室と同情
コン、コン、コン。
私は読みかけの本から顔を上げた。図書館の中はとても静かだから、集中していたというのに。ため息を吐きながら、目の前に座っている少年を睨みつける。が、彼は目の前の問題に夢中でまったく気にしていないようだった。
彼は少年と呼ぶにはいささか大人びている気もしたが、学生だろうか。この辺りにはわりと有名な学校やら塾があるから、そこの生徒なのかもしれない。いや、やはり彼からは学生特有の若々しさというものを感じることができない……もしかして浪人生、か。
そこまで考えてなぜか、ふっと力が抜けた。口から少量の息がもれたのが分かった。さっきまでは彼がシャープペンシルで机を叩く音が気になって仕方なかったのだが、まぁいいか、と思った。きっとこれは同情っていうのだろうな、とも思った。
気分転換に違う本を探すことにした。立ち上がったときに彼のノートをちらりと見たが、よく分からない数字やアルファベットが並んでいた。
ふらふらと本棚の間をさまよっていると、受付の若い女性と目が合った。いつもならすぐに逸らすのだが、彼女の赤い眼鏡が目に付いた。私がその眼鏡をかけたら夫はどんな反応をするだろうか。
三、メガネ屋と退屈
振り返ってにこっと笑う赤メガネの彼女(俗に言う、まいすいーとはにー)に作り笑いを返しながら、こっそり時計を確認する。長針は始めにここに入ってきた時とほとんど変わらない位置にいた。残念なことに、一周して。
「赤も捨てがたいんだよねぇ。でもこの茶色もなかなかいいと思うんだけど」
そう店員さんに向かって話す彼女の声を聞きながら、僕は窓のそばに移動して休むことにした。
僕の今日の予定はどこから狂ってしまったんだろうか。明日は久々にバイトが休みだからDVDでも観よう、なんて思っていた時から? 今日の(お昼に限りなく近い)朝に起きたとき、彼女からの恐ろしいほどの数の着信履歴を発見してから? びっくりして電話をかけなおしたら、「……メガネ、壊れちゃったの。買いに、行かなきゃ」なんて彼女自身が壊れてしまいそうな声が聞こえてから? 「まぁ伊達メガネだし。そんなにあせらなくてもいいんじゃない」って答えたら、僕の耳まで壊れるんじゃないかってくらいの怒声(「私の、魅力が! メガネが、壊れたことによって! 半減、半減! されてるのよ! それでも良いわけ?」)が聞こえてきてから? ――分からない、分からないけれど、気づいたらここに連れ込まれていたのだ。
彼女にメガネは特別似合う、と思ったことはなかったけれど、彼女は自分のメガネ姿をとても気に入っていたのは知っていた。お気に入りだった黒縁メガネをいつも持ち歩いていた。特に曇っているわけでもないのに、顔から外し、レンズを拭き、得意げに笑っていたのだ。
新しいのも黒縁でいいのに、なんて思いながら窓の外の道路に目を向けると、少し離れた場所を走っていた男の子が歩道の段差につまづいて転ぶのが見えた。ゆっくり起き上がった彼は瞳を潤ませて、少しすれ切れたひざを抱えた。そのひざにはところどころ血が滲み出していた。
四、勉強会とやる気
「見ろよ、血。血」
そう言ってずいっと人差し指を向けてくるヒロトに「暇人」と返しながら、問題集の次のページの解答を探した。
「あー、つまんね」
オレを軽く睨みつけながら、ヒロトは赤インクのついた人差し指をティッシュでぬぐった。
「分かったからなんとか終わらせようぜ。明日から予定ぎっしりあるし」
オレがそう言うと、ヒロトは「あとは任せた、オレの意志を継いでくれ。……ばた」と言ってベッドに倒れ込んだ。そのまま数秒間倒れていたかと思えば、それすら飽きたらしく、足をじたばたさせて呟く。
「せっかくの夏休みが。最初で最後の中二の夏休みが。オレの、夏休みが」
それを聞いてオレはつい吹きだしてしまった。解答を写していた右手を止め、言った。
「それ、去年も言ってたぞ」
え、と目を見開いた夏休みの持ち主は、すぐに真剣な表情になって「多分、来年も言うよ」と頷いた。
オレは手を休めながら、机の周りに散らばるノートやらプリントやらを見渡した。これを夏休み中に全部終わらせる、なんて考えるだけでぞっとするっていうのに、「解答は写すなよ」なんて言う担任の神経は理解できない。あーゆー教師がいるから、この国はダメになった、なんて偉い人に言われるんじゃないかと思う。
「でも高校はまだ学校らしいよ。うちの兄ちゃん今日制服着て出てったし」
ヒロトがでっかくため息を吐いてから言う。オレの口からも、思わず声が漏れた。
相変わらずやる気を見せずに「オレ、高校生になんなくていいかも」なんてボソボソ言うヒロトを横目に見ながら、残っている宿題を確認する。そして、夏休みの宿題一覧、と太い字で書いてあるプリントの下の方に「作文」と書いてあるのを発見した。
「作文って、小学生かよ」そう呟きながら、昔よく作文の話題にしていたおばあちゃんのことを思い出す。
五、おばあちゃん家としわしわ
おばあちゃんがいない。
さっきまではへやでお茶をのんでたはずなのに。あついな、なんてうろうろしている間に、いなくなった。
きのう夏休みがはじまって、わたしはおばあちゃんの家にきた。ママもパパもおしごとがいそがしくて、「三日だけ、おばあちゃん家にいてね」って言われたから。
家から車で一時間くらいでつくおばあちゃんの家は、すごくこわい。へやの中はたたみのにおいがぷぅんってするし、トイレは外にあるし、おばあちゃんはしわしわだし。なんか、こわい。
ほこりっぽいろうかを、どきどきしながら歩いているとき、外から「はるー」っていうこえが聞こえた。おばあちゃんだ。
いそいで外に出たら、ふわっとなにかのにおいがした。少しあまいにおい。……うめぼし。
「おばあちゃん」
なんでかしゃがみこんでいるおばあちゃんの背中にこえをかけたら、おばあちゃんがにこにこしながらこっちを見た。そうじゃなくてもしわしわの顔なのに、もっともっとしわしわになった。
「ウメ、干すの手伝って」
そう言っておばあちゃんは一回立ち上がって、こしをさすりながら小さくため息をついた。そのまねをして「あー」って言いながらこしに手をあてたら、おばあちゃんはもう一度顔をしわしわにした。
えへってわらって、しんぶんしにならべられているウメにちかづく。においが強くなった気がした。
んー、ってのびをしながら空を見る。青空。ずかんで見たあのへんてこなトリ、いないかな。
六、体育館と挑戦
「大丈夫、コツはつかんだ。次こそ俺は、鳥になる」
その台詞に、俺はまたこっそりため息を吐いた。きっと彼の辞書の「不可能」は、修正ペンで消されてしまっているらしい。もしかしたら「人類」の同義語は「鳥類」かもしれない、とそこまで考えて改めて、ぞっとした。
絶対に俺の望む返事がくるなんてありえないとは思いつつも、聞かずにはいられなかった。
「そろそろ、止めとかねぇ?」
案の定、俺の言葉に彼はぽかんとした顔を向けて言い放った。
「なんで?」
俺、大丈夫って言ったじゃんか、と口を尖らせ始めた彼に、慌てて「そうだよな、大丈夫だよな」なんてフォローを入れる自分が情けないとは思いつつ、もう一度ため息を吐く。
彼が拗ねることほど、きついものはないと思う。口を利かない、とか、眼を合わせてくれない、とか、そういうことじゃないのだ。彼は拗ねると、うるさい。そうじゃなくても普段からうるさいのに、拗ねるとそれが倍増し、構って欲しいオーラまで出してくる。その時の苦痛に比べれば、彼のやりたいことに付き合うことのほうがまだまだ全然ましに思えた。ファストフード店でスマイルを頼んだり、近所の小学校の全部の黒板を白チョークで塗りつぶしたり、ピエロの格好をして公園の鉄棒の上を歩いたり――鳥人間になったりすることくらい、どうってこと……ないのだ。
頭に真っ赤なトサカを付けたヘルメットを被り、大きな白いダンボールの羽を両手に固定し、彼はこっちを見た。早く早く、とぴょこぴょこ飛び跳ねている。これで三度目だというのに、まだ懲りないらしい。
近所の中学校の体育館を借りて、そこの床一面にマットを敷き詰め、彼はバスケットゴールの上(そこがこの体育館のなかで一番高い場所だった)から飛び立つのだ。もう二度も失敗して、マットの上にぼすんと落ちているというのに。首や背中の骨が折れるかもしれない、下手したら死ぬかもしれないっていうのに。今そうやって無傷で笑っていられること自体が奇跡だっていうのに。彼は、飛び立つのだ。そして俺は、無謀な彼を応援し、彼が飛び立った瞬間にでっかいうちわで風を送るために、ここにいる、らしい。
まぁ、三度目の正直って言葉もあるし。そう自分に言い聞かせながら、いつのまにかバスケットゴールにスタンバイしている彼を見上げる。
「いくぞー、……さん、にぃ! いちッ! ゴォォ!」
そして俺は、勇敢な彼のために、身体中で風を作り出すのだ。
一、教室と。
風。……急に窓から強い風が吹いて、目が覚めた。
英語教師は相変わらず黒板と向かい合っていて、今の風のせいで机の上に乗っていた夏の課題のプリントが飛ばされそうになっていた。慌ててプリントを机の中に押し込みながら、中学時代によく友達と夏の宿題会を開いていたのを思い出す。
まぁ、結局は遊びになっちゃうんだよね、なんて心の中で苦笑いをしてたら、後ろの席の麻美に肩をとんとん、と叩かれた。なに、と振り返ると、腕を掴まれて手に何かを握らされる。あぁ手紙か、なんて納得してから、向き直って机の下でこっそり開いた。
『寝てんなよー。あと、今日の帰り図書館で勉強しない?』
手紙と一緒に梅の飴玉も渡されたことに気づいて、それを静かに口に入れる。梅の香りが口いっぱいに広がって、妙に心地よい。
頭の中がすっきりして、麻美にありがとって言おうと思った。それでも勉強は勘弁だよって付け加えた時に、麻美が恐ろしく似合わない黒縁メガネの奥の瞳を不満げに細めるのを想像した。
授業が終わるまであと五分。今、歯を食いしばって気合いを入れなおした、試合五分前のどこかのだれかをイメージする。
せめてあと五分くらいは、頑張らないと。