木曜日

 今年一番の豪雨です。そんな声が美里の耳に届いた気がした。それは朝いつも観ているニュース番組の天気予報のお姉さんの声によく似た、何度も練習された笑顔が似合う声だった。事実、窓の外の雨は朝よりも激しさを増したように思った。ノイズに近い雨の音は次第に大きくなり、きっとこの教室を塞いでしまう。そんな息苦しさを感じた時、左手首に巻きついた腕時計のデジタル表示が11:48に、変わった。
 顔を黒板の方に戻すと、学級委員長の由紀が教卓の上に乗った正方形の箱に手を入れるところだった。席替え特有の高揚した教室内の空気が湿気に飲み込まれている。由紀は少しだけ口の端を引き締めてから、箱の中で二、三度だけ手を動かして白い紙を引いた。そしてその紙をゆっくりと開いた由紀の口が「あ」の形を作ったのを見た時、美里は心の中で小さくガッツポーズをした。
「さい、あく。……美里、ほら次」
 黒板に書かれた歪んだ座席表の一番前のど真ん中、いわゆるデッド・ゾーンに「相沢」と書きながら、よく通る声で由紀が言った。「はーい」と機嫌のいい返事を美里はして、教卓の傍まで行く。その時また「さいあくー」と由紀が呟いたのが聞こえて、美里は「どんまい」と、その肩を小さく叩いた。そのおかげか、由紀の三度目の「さいあく」は冗談めいて聞こえた気もした。
 今の席が廊下側の後ろから二番目という、わりと上々な席であった美里にとって、あまり席替えは楽しみなものではなかった。美里は箱の中に手を入れながら思った。一番前の席でなければいい。できればやっぱり、後ろの方がいい。隣は女の子がいい。そして指先に触れた紙を引き出す。箱の中でぐしゃぐしゃにされた紙は、すでに半分ほど開いていた。そっと、全部広げた。
 十九番。
 顔をあげて、黒板の座席表を確認する。一番前の列を目でなぞった……無い。一番後ろ……。
 一番後ろの一番窓側の席。そこに自分の手の中の数字と同じ数字が書かれているのを美里は確かに見た。口角がゆっくりとあがる。
 美里は少し勿体ぶってから、十九番の四角に「松井」と書いた。「マジかよォ」と山下が悔しそうに呟くのが耳に届いて、美里は少し嬉しかった。十九番の隣の十七番はまだ空白のままだった。
 自分の席に戻ると、由紀が待ち構えていて「いいなぁ」と言った。だから美里も「いいでしょー」と返した。由紀は笑って、それから思い出したように「ねぇ、知ってる?」と言った。
「知らない」
 そう即答した美里に由紀はもう一度笑う。
「あのね、教室の机って全部同じ向きなんだよ」
 私、気づいちゃったんだよねー、と由紀は得意げに言った。美里はその意味が上手く飲み込めず、「どういうこと?」と訊いた。
「だからさ、うちのクラスの机ってあっち向いてんじゃん? 体育館の方、ね。それでさぁ、隣の二年一組三組も、当たり前だけどあっち向きでしょう」
 あっち、と由紀は黒板を右手で指さした。美里の目もそれを追う。
「で、考えてみたら、下の階の一年も上の三年も、あっち向いてんだよ。ついでに言うと、隣の棟の講義室も」
 美里は講義室で放課後勉強している三年生を想像して「本当だ。……考えたこともなかった」と呟いた。
「でもさ、なんか変な感じ」
 そう言うと、由紀は真剣に頷いた。
「うん、変。それに、なんか」
 そこで一端言葉を切った由紀が、小さな声で「息苦しいよね」と言ったとき、美里は由紀に心臓を握られたような気分になった。
 そっと黒板に視線を戻すと、座席表の十九番の隣、十七番は既に誰かが名前を書き込んだ後だった。誰だろう、そう思って美里は身体を少しずらした。字が薄くて見づらいが何とか見えた――「塚田」。  その名前を見たとき、美里の頭に浮かんだのは「ど」「う」「し」「よ」「う」の五文字だった。  塚田とは今年から同じクラスになった。昨年何組だったかは知らない。そして、同じクラスになってもうすぐ三ヶ月になるが、まだ一度も話したことがなかった。
「えー、冗談っスよォ」
 教室に大きな声が響いた。山下の声だ。何だろう、と思い見てみると、山下が慌てたように手を振っている。今度は、ははは、という塚田の低い笑い声が聞こえた。
 いつもクラスのお調子者で、冗談ばかり言っている山下でも塚田のことは苦手なんだ。そう思って美里は小さく息を吐く。
 恐そうな人だな、と思う。休み時間に他の男の子たちと話しているのは見るのだが、どんな話をしているのか美里にはさっぱり見当もつかなかった。塚田のシャツに透けるTシャツの赤色や、浅黒い肌、ワックスで持ち上げられた髪は、放課後ゲームセンターに集まる目つきと言動の荒い男子高校生のようで近寄り難いのだ。
 そういえば。前にクラスの誰かが、日曜にコンビニの前で派手な女の子たちと楽しそうに話す塚田を見た、と言っていたことを美里は思い出した。塚田の耳にはピアスの穴がある、とも言っていた気がする。
 派手な女の子。ピアスの穴。そのどちらも、美里には無縁なように思われた。美里は中学生のころから校則をある程度は守ってきたし、髪を染めたこともなかった。化粧もしたことがない。そんな自分は、塚田の目にどう映るのだろう。
 山下がまた「冗談っスよ」と言った。一体どんな会話をしているんだ、と思う。そして、自分も塚田を怒らせないようにしなくてはならない、と改めて思った。心の中で「冗談だよぉ」と呟いてみる。タイミングよく、また塚田の笑い声が美里の左耳に入った。
 そしてその時、教室にチャイムが響いた。それを合図に、今までずっと扉の前で黙って成り行きを見守っていた担任の森本が静かに言った。
「じゃあ、席の移動は掃除の時にな」
 垂れた目、出っ張ったお腹、情けないオジサンのような森本を、生徒達は陰で森本さん、と呼ぶ。森本が受け持つ現代文の授業は、誰もが黒板の前で教科書をぶつぶつと読む森本を無視して、内職に励んでいた。美里はだいたい宿題に出されているプリントをしている。由紀も、森本さんって何言ってるか分かんないから、と数学の問題集を進めている。
 森本はすべての四角に名前が書き込まれた座席表をじっと見たあと、ちらりと教室内を見渡して何かを言ったが、美里には聞き取れなかった。そして森本がまた静かに教室を出て行くと、山下が「おいおい、聞き取り不能だよ、森本さん」とおどけて言って、それに何人かが笑った。美里も釣られて笑う。しかし今度は塚田があまり笑っていなかったのを見て、美里はさらに気が重くなった。

「ねぇ、私と離れて寂しいでしょ」
 机の上に椅子と鞄を乗せながら、美里は後ろの席で同じように椅子と鞄を載せている由紀に言った。由紀はにっこり微笑んで、「ぜーんぜん」と答えた。それに美里が少し口を尖らせると、由紀は豪快に笑って美里の肩を叩いた。
「ごめん、嘘だって」
「別に。そんなの分かってるし」
 美里は由紀に叩かれた肩を大袈裟にさすった。
「由紀、美里。早く移動して」
 そうどこからともなく声をかけられて、二人は顔を見合わせた。
「じゃあ、まぁ、しばしの別れだけど」
 かしこまって言う由紀に、美里は「おう」と返して、机を滑らせる。教室の床は古くなっていて、滑りが悪い。時々、急ブレーキのような不快な音が鳴った。
 窓のすぐ傍の席。雨の音が近くに聞こえる。塚田が不快な音を鳴らしながら、美里の隣まで机を滑らせてきた。美里はまるでそんなことはまったく気が付いていない風に、結露して見えない窓の外に興味を示す素振りをした。
塚田も美里に「おう」とも「よろしく」とも言わなかった。そのまま塚田は自分の薄い鞄を掴み、教室から出ていってしまった。
 何だそれ、と美里は内心毒づいた。そんな露骨に無視しなくてもいいじゃないか。そりゃあ、私だって気付かないふりしたけど、でも……。
 結露した窓ガラスに美里は何となく指を滑らせた。指の後には線が出来て、線からは細く露が流れ出る。たちまちに線はぐしゃぐしゃになってしまった。


 母が煮魚をテーブルに並べて、言った。
「二人とも、日曜日は予定入れないでね」
 美里は三人分のコップに麦茶を注ぎながら、「なんで」と訊いた。父は美里の隣で黙って箸を手に取った。
 結婚しても、子供が出来ても、夕飯は家族揃って食べる。父がプロポーズをした時、母が出した条件がそれらしい。父はそれを忠実に守っているように美里は思う。たまに、父が帰って来れず、一緒に食べられないときは、その週末の夕飯は父が母に代わって作るのがルールだ。
美里も塾だったり友達と出かけたりして夕飯の時間に間に合わなかったときは、日曜の夜、母に教わりながら夕飯を作る。もちろん、兄もそうした。
 母の作ったそのルールは決して悪いものではなかった。確かに、夕飯を作るのはすごく面倒だったけれど、母は家のバランスを取ろうとしていたのかもしれない、と美里は考えていた。
 昔、由紀が「オススメ」と言って貸してくれた小説の主人公の父は、とても厳格な人だった。生真面目な父。寡黙な父。それは自分の父と似ているのではないか、と美里は考えたのだ。主人公は、父に抑圧され続け、最後には耐えきれなくなって自殺してしまう。そんな馬鹿な話、と美里は思ったけれど、そう思えるのは、父とは対照的な性格の母がいたからではないかと今は思う。父の抑圧を上手く緩和できたのが自分、それが出来なかったのが兄なのかもしれない、と。
 テーブルにイスは四つある。以前はその四つすべてが夕飯時には埋まっていた。今では美里の目の前が空席だ。ご飯をよそる茶碗も、煮魚の乗る魚も、美里が麦茶を注ぐコップも、ひとつ少ない。
 大学生になった兄は、昨年家を出て行った。高速バスで片道三時間、三千百五十円もかかるそこまで、兄は出て行ってしまったのだ。
 母が自分の箸と一緒に美里の箸も取りながら、言った。
「お母さんの知ってる人のバンドがライブするんだって」
 一緒に行こうよ、というニュアンスを含んだその言葉に、父は喉の奥が詰まったような声を出して、咄嗟に咳払いをする。母はそれに「なぁに、お父さんったら」とにっこり笑った。
 美里は黙って父と母を交互に見た。父は気まずそうにして、いただきますも言わずにご飯を口に運びだしてしまって、それを母は笑いながら見ている。
 ――本当に、本気でそんなこと言ってるの?
 美里は母に問い詰めたかった。お兄ちゃんがどうしてこの家を出て行ったか、本当に分かってるの、と。
 兄は、ギターを大切に抱えながら、この家を出て行った。それは、兄のバンド活動を頑固に反対し続けた父への当てつけのようだった。
 兄がギターをかき鳴らすことも、どっかのバンドのメンバーの真似をして髪を長く伸ばすことも、父は許さなかった。兄の部屋に散らばっていた楽譜を破いて捨てたことなんて何度でもある。だから兄はあの日、抑圧に耐えきれなくなって――。
「ね、美里も行くでしょう」
 美里も、とそこを強調して母は言う。父は何も言わなかった。だから美里も、頷きながら「うん、じゃあ行く」と答えた。

 自分と父の食器を水道の桶に浸して、美里は自分の部屋に行った。机の上に置いたままだった携帯のランプが緑色に点滅している。
 美里は一度溜息を吐いてから、携帯を開いた。受信メール一件。送信者:松井裕也。
『元気ですか。こっちは今日、雨がたくさん降りました。』
 美里はすぐに返信ボタンを押して、新規メール作成画面を開いた。
『元気です。こっちもたくさん雨が降ったよ。』
 兄がこの家を出て行ってからも、美里の携帯には時々兄からのメールが届いた。それらはいつも「元気ですか」で始まって、今日の天気とか、お昼ご飯のメニューとか、そういうどうでもいいような一文があって終わる。絵文字も顔文字もないメールだ。美里はそれに毎回しっかり返信をするのだけど、兄からさらにその返信が来たことは今まで一度もなかった。
 なんて、自分勝手な兄だろう。そう思った時、美里の手の中の携帯のランプがチカチカと光った。
 え。と一瞬、脳が停止して急激に熱をもった。慌てて携帯を開く。
 受信メール一件。送信者:相沢由紀。
『古典の宿題って何かあったよね? 覚えてる?』
 熱を持ったはずの脳が急激に冷やされて、美里は苦笑いした。うわなんか心臓どきどきしてたよ、と。
 さっき送った兄へのメールよりも時間をかけて、由紀に返信するメールを打ち込んだ。絵文字を並べて、カラフルにする。
 送信ボタンを押したとき、今度は自分から兄に連絡してやろう、と美里は思った。