金曜日

 美里は金曜の朝が好きだ。あと授業を六時間耐えれば土曜日曜が待っていると思うと、どんな曇り空でも清々しく見えてしまう。それを言ったとき由紀は「まぁ、四十八時間後には月曜日が来ちゃうけどね」と皮肉っぽく笑っていた。
 意識的に、塚田のことは考えないようにした。どうにでもなれ、とは違う。向こうが無視するなら無視するし、話しかけてくれるなら、話してもいい。でもやっぱり、無視し続けるのは淋しい気もする。
 教室の扉は軋んで高い音がでる。校舎の脇に百周年記念館が建つこの高校は、どこもかしこも古いのだ。お兄ちゃんだって言っていた、「校舎も先生も校風も全部古臭いんだ、ここって」。
 あまり話したことのない少し派手な女の子二人がくたびれたように机と椅子に座って、話して、笑っていて、あとは隅っこの方で眼鏡の無口な男の子が古典のノートと辞書を開いているだけの教室に、扉の悲鳴は弱々しく響く。女の子の一人がこっちを見て「おはよぉ」と言って、それに美里も「おはよー」と返すのはいつものことで、でも美里から「おはよー」と言うことは絶対なかった。
 自分の新しい席――教室の端っこは窓際だけれど少しだけ暗い気がする。カーテンが集められているのが原因か、それともすぐ後ろにロッカーがあるからか。
 そんなこと、考えていても仕方ないか。そう美里は自分自身に言い聞かせて、席についた。一校時目は英語で、昨日配られたばかりの予習プリントをやらずに昨日は眠ってしまったからだ。鞄のポケットから先々月に買ったアイポットを取り出して、イヤホンを耳に入れ、ボタンを押す。いつものように操作すると、美里の耳に馴染んだ、激しいドラムの音が響いた。音量を出来るだけ大きく、でも静かな教室に漏れないくらいに調節する。
 うるさいくらいが丁度いいんだ。美里は思う。由紀がこのイヤホンを付けたら、きっと顔をしかめるだろう。「なに、ロックなんて聴くの」と笑うかもしれない。
 美里のガールズポップやサウンドトラックばかりのアイポットの中にロックが入りだしたのはわりと最近のことで、兄の部屋を漁ったら大量のロックのCD(そのほとんどにはBOOKOFFの値札がついていた)が出てきたことがきっかけだ。
 興味本位で聴き始めたそれらには、ジミヘンやスプリングスティーンなどのアメリカのロックも入っていたが、英語の歌は美里にはよく分からなかった。なので、ブルーハーツやクレイジーケンバンドといったようなジャパンロックをよく聴いた。
 両耳から脳に直接届くような音楽に身を委ねてしまうと心地よい。脳がぼう、としてきて、麻痺する。だから、うるさいくらいが、丁度いい。
 予習を始めるのに筆箱を取り出そうと、机の脇にかけた鞄に手を伸ばすと、隣の机がガタ、と動いた。驚いて顔をあげると、たった今鞄を机に下ろした塚田と目が合う。塚田の口が動く。聴こえない。焦って美里はイヤホンを右耳だけ外して、「え、なに」と言った。それから左耳も外した。教室の音が流れ込んでくる。塚田は制服のしわを直しながら言った。「いや、わりいなってだけ」
 あ、そっか。美里は小さな声で返した。なんだか自分ばかり過剰に反応しすぎた感じがして、恥ずかしかった。すると、塚田がアイポットを指して言った。
「音楽、何聴いてんの」
 不意を突かれた美里は、え、と言葉に詰まって、「ブルーハーツ、とか」とやっと言った。それを聞いた塚田の口が、へえ、と動く。「意外」
「最近、聴く。……意外に」
 そう美里が答えると、塚田は「いいよな、ブルハ」と笑った。そして軽く節をつけて、「みらいはぼくらのてのなかァ、だろ?」と言った。
 驚いて美里はアイポットに目を落とす。液晶画面に表示されている曲は「未来は僕等の手の中」だった。
「うん、いいよね」
 そう答える自分の声が、思いのほか明るかったことが、美里にはどうしようもなく嬉しかった。

 しかし、朝に会話したことが夢であったかのように、その後は何の話もしなかった。やたらと隣の席と交流させようとする英語の授業は、美里はあまり塚田のほうを向かないようにして、あくびをしてみたり、ノートを整理してみたりした。そのまま放課後になって、塚田は昨日のように何も言わずに帰ってしまった。塚田はロックが好きらしい、ということを知っても、美里には特にそれをきっかけにするような話題も知識もなかった。むしろ、朝のことからだんだん頭も冷えてきて、自分みたいな地味な女子がロックなんか聴いて、陰で笑われるのではないか、と心配になった。なんでもっと女の子らしい答えが出来なかったのだろうか。
「美里、帰ろうよ。何やってんの」
 由紀の声が耳に入る。あ、ごめんごめん、と美里は笑いながら、鞄の中に筆箱と教科書を詰めた。由紀はそんな美里を見て、「どーよ、この席。いい感じ?」と訊いた。
「なにそれ、いい感じって」
 そう美里は笑ったが、内心、由紀に塚田のことを話そうか少し迷った。しかし、何を、話すというのだろう。
「隣、誰だっけ」
 そんな美里の心の中を読んだように、由紀がなんでもないように言った。美里は、わざと思い出す素振りをみせて、「えーっと、塚田くん」と答えた。
 それを聞いた由紀は、ああそうか、と小さく呟いて、「結構、優しいよね、塚田って」と言った。去年、図書委員で一緒だったんだけど、と付け足した。
 そうかな、とも、そうだね、とも、美里は言えなかった。なんと答えたらいいのか迷って、結局「そっか」と言った。


「おい」
 乱暴に右耳のイヤホンを外されて、美里は我にかえった。驚いて振り返ると、父が眉間に皺をよせて立っていた。弾みで左耳のイヤホンも外れる。
 六時過ぎに家に帰った美里は、そのまま部屋に行き、夕飯までに数学のワークを終わらせてしまおうと、机に向かったのだ。数学は提出チェックが厳しいから、月曜にしっかり出さないと居残りさせられてしまう。音楽でも聴きながらでも、さっさと終わらせてしまって――。
 音量を上げすぎたのが問題か、美里の耳には、母がキッチンから呼ぶ声も、父がドアを荒々しく叩く音も、聴こえなかったのだ。
「夕飯」
 そう父は低い声で言った。それから、イヤホンからこぼれる音が、ドラムやらギターやらの父が毛嫌いするそれだと分かった父は、黙って机の上の機械を乱暴に取り、部屋から出て行ってしまった。美里は一瞬何が起きたのか分からなくて固まった。ゆっくりと理解する。そして慌てて、リビングに降りた。
「お父さん」
 いつもよりきつい声がでる。父に向かってこんな声を出すなんて、初めてだ。リビングのソファに座った父は、何も言わずにテレビのチャンネルをいじった。
「ねえ」
 美里は苛苛してソファを叩いた。台所で食器の準備をしていた母が驚いた様子でこっちを覗っている。構うもんか、美里は思った。全部、父が悪い。全部、全部だ。
「そんなんだから、お兄ちゃんは出ていっちゃったんだよ。分かる? 分かんないでしょう」
 知らん顔でチャンネルを弄る父に、思わず美里は怒鳴った。母が、食器を音を立てて落とす。
「ばかじゃないのそうやってさあ。ほんともういい加減にしてよ」
 父が顔を上げる。息を吸おうとすると、鼻がずず、と音をたてる。唇を舐めると、塩水が舌に触れた。
「もっと、私たちのこと分かってよ」
 もう一度息を吸う。ずず、ずずず。あ、泣いてる、とやっと気がついた。眉間が、まるで体中の血液が集まってしまったかのように、熱を持つ。
 父は何も言わずに出て行ってしまう。塚田みたいだ、と少し、本当に少しだけ、思った。

 夕飯の時、父はいなかった。四人用のテーブルに二人だけで座るのは、なんだかそわそわした。母は何も言わなかった。美里も、「いただきます」と「ごちそうさま」をぼそぼそと言っただけだった。あまり好物ではない肉詰めピーマンを口に運ぶと、苦みが広がった。
 部屋に戻った美里は、机の上に自分のアイポットが置いてあることに気がついた。ああそう、と美里の中で声がした。ごめんなさい、ではなくて、何だそれ、に近かった。
 返してほしかったんじゃないんだよ。今さら気がつく。そりゃあ、返してほしかったんだけど、そうじゃなくて。もっと、分かってほしかったのだ。「こういう音楽も聴くんだな」とかそういうことを、少しだけ言ってほしかった、気がする。
 ふと、視界の端のほうで、携帯が光った気がした。反射的に携帯を掴み取り開くと、画面はいつもの待ち受け画面で、メールも電話も受信していなかった。なんだ、と携帯を左右に動かして、部屋の明かりと自分の影が反射しただけか、と納得した。
 なんだか悔しくて、一瞬でも兄からのメールではないかと思った自分がなんだか馬鹿みたいで、メール作成画面を開いた。
 あの日のことだ。美里は思い出す。今まで何度思い返したか分からない。忘れることができない、と言ったら大袈裟すぎる気がする。確かに、思いださずに一日が過ぎることだって何度もある。けれど、今でも鮮明に思い返すことができる。
 電子辞書を借りよう、と思ったのだ。美里の辞書はいつも学校のロッカーに入れっぱなしで、愛用の電子辞書もその日は教室の机の中に置き忘れてしまった。だから、英語の宿題をするのに電子辞書を借りよう、と兄の部屋に向かった。
いつものように、ノックをしながらドアを開けた。そして、ノートやら参考書やら雑誌やらが乱雑した部屋の中、机に向かっている兄の背中を叩いたのだ。
「お兄ちゃん、電子辞書」
 貸して、までは言えなかった。兄はこっちを向かなかった。それでもその光景を見た美里の頭の中は、一瞬で真っ白になって、その後の一瞬で高速回転し始めた。
 なにやってんの、と自分は言った。酷く情けない声が出た。
 兄は答えない。ただ、左手首を押さえる右手、机の上のカッター、だけでもう答えは十分だった。  やめてよ。美里は兄の肩を強く何度も揺すった。やめてよ、そんな惨めなこと――。
 確かにあの時思ったのだ。俯いて、左手首を握りしめて、足ががくがくと震えていて、押しつぶされたような声を出して泣いている兄を、惨めだと。
 そのあとは、兄に腕を振り払われて、美里は黙って部屋を出た。父にも母にもそのことは言わなかった。なぜか、兄が自殺してしまうのではないか、とは思わなかった。どちらかというと、そんなことしたって死ねないくせに、というほうが強かった。死ねないのに、惨めなだけなのに。
 兄が家を出ていく、前の日のことだ。

 送信先を探す。普段は返信ボタンで一発の兄のアドレスを、アドレス帳から見つけ出すのはじれったかった。
 やっと見つけて、新規メール作成画面を開く。本文。
『お兄ちゃんは、』
 少しためらって、それでも今じゃなきゃだめだ、と思って続ける。何がだめかっていうと、自分が、だ。
『誰かに自分のことを理解してほしいって思う?』
 返信はくるだろうか。不安がよぎる。なんとなく、兄は怒っている気がずっとしていた。あの時、兄のことを惨めだと思った美里を、怒っているのではないか。
 今じゃなきゃだめだ。そうもう一度無理矢理思って、いつもより強めに送信ボタンを押した。
 メール送信中の表示がいつもより長い気が、する。