土曜日

「結局、美里が心待ちにしてた土日も、課外だもんね」
 嫌になるなあ、と由紀は軽く言った。ほんとだよ、と美里も冗談まじりで返す。土曜の朝の教室は気だるい。本当なら今頃ぐっすり寝て、休日を有意義に使ってるのに、というような空気が充満しているようだ。
 土曜課外の存在については、美里はもう諦めていると言っていい。諦めるというより、まあ耐えればすぐ終わるでしょう、のほうが近いのだが。登下校でいい運動になるでしょう、なんてポジティブに考えてみる。同時に、そんなんで大学受験は大丈夫かな、とネガティブになるのも、それはそれ、だ。
 美里は机に鞄をかけながら、隣の空席をちらり、と見た。塚田は来ていない。あと三分もしないうちに授業は始ってしまうのに。サボりだってことは、うすうす感づいている。
「うわ最悪。古典、森本さんだってよ」
 教室の後ろの黒板に貼ってあるプリントを見た山下の声が響いた。悲観的ではない、どちらかというと、自習だやった、というような声だ。美里も内心やったと思って、数学のワークを鞄から出した。ワークを進めて、眠くなったらある程度うとうとして時間を潰せばいい。
 しばらくすると森本が教室にのそっと入ってきて、静かに出席簿をまわし始めた。それを見計らったように、閉まっていた教室の後ろのドアが軋んだ音を出しながら開いて、塚田が入ってきた。まっすぐ席までやってきて、薄っぺらな鞄を降ろす。
 ふうん。美里はあまり隣を意識しないようにして、シャーペンをカチカチ鳴らしながら、思った。課外とか、来るんだ、意外。
 森本はそんな塚田に気づいたのだか気づかなかったのか、相変わらず何も言わずに黒板の前に立ち、教室をじっと見渡すと、テキストの本文を黒板に書き写し始めた。
 美里もワークを開いて、ノートに円のグラフを書いた。しかし、円が上手く書けず、消しゴムで消す。それからもう一度書こうとシャーペンを取った時、指先が消しゴムを弾いてしまい、床に落としてしまった。
 あ、と小さな声が出る。その声が聞こえたのか、塚田が机の下に体を窮屈そうに入れ、その消しゴムを拾った。がたん、がたん、と音が鳴る。
「ほい」
 そう言って手の中に包まれた消しゴムを塚田は差し出す。美里はそれを小さな声で、ありがと、と言って受け取った。
「なに、数学?」
 塚田が美里の机のワークを見て言った。「うん、そう。終わらなくて」と小刻みに頷きながら美里は答えた。「それに、」と付け足す。
「森本さんって、何言ってるか分からないからさあ」
 それは、山下のように爆笑を望んだわけではなく、ただ塚田も「そうだよな」くらいは言ってくれるだろう、と思った上での発言だった。
 しかし塚田は、ちらり、と森本を見てから、「へえ」と言った。それは酷く乾いた声音で、軽蔑の色が混じっていた。美里はその声を聴いて、思わず、「ごめん」と口走っていた。それが耳に届いたのか塚田は、ははは、と低く笑って、「いいよ」と言った。それで美里は、やっぱり軽蔑されたのは自分だということを思い知った。
「森本ってさあ、何考えてんだろうな」
 塚田が言った言葉を、美里は「え、」と訊き返した。塚田は小さな声で、いや、と言ってから、「森本って、俺らのことどう思ってんだろう」と呟いた。
 美里はその独り言のような声量の言葉に返事をしていいのか悩んで、しかし塚田が、ちらり、と美里の方に視線を送ったので、「どうって……」と返した。なんとか返事をしようと思っても、塚田の言葉の意図が掴めなくて返しようがないのだ。
「だってさ」塚田は言う。「森本ってよく教室の俺らのこと、じーって見まわすじゃん」美里は黙って頷く。「森本は何考えて俺らのこと見てんだろうな」
 美里の心臓が、どくん、どくん、と漫画みたいに脈打つ。汗をかいている気がしてそっと額に触れたが、指先は雫を拭わなかった。
 教室を見まわす。誰も黒板のほうは見ていない。森本の声がぼそぼそと聴こえる。皆みんな、机と対面して、閉鎖された空間を作っている。
「ああ、知ってる?」塚田が声をワントーンあげて、言う。意外に饒舌なんだ、と美里は思う。
「なに、知らない」そう由紀に言うように返すと、塚田はまた低い声で笑った。今度は、山下の冗談で笑うように。
「教室の机って、全部同じ向きなんだよ」
 美里は何も言わなかった。それを塚田は勘違いして、「えーと、うちのクラスと隣の一組も三組も、」と説明したので、美里は頷きながら「知ってる、知ってる」と言った。塚田も、ああそう、と口元を緩ませて頷いて、「なんか、押さえつけられてる感じ、するよなあ」と言った。いやまあ、何にって言われたら……権力、とか? と、塚田は苦笑する。
 美里もそれに小さく頷きながら、なんとなく「あたしのお兄ちゃんもさあ、」と言いかけて、止めた。塚田が一瞬怪訝な顔をしたが、「いや、なんでもない」と言うと、そっか、と顔を黒板の方に向けた。
 美里はその横顔に、少し躊躇ってから、「山下って、面白いよね」と声をかけた。ん、と塚田はもう一度美里の方を向いて、一端、机に突っ伏している山下に視線を送ってから、「ああ、面白いよな、あいつ」と言った。「だよね」と返す美里の心の中に、山下の「冗談っすよォ」が響いて、こっそり笑った。

「それじゃ、ノートとった人から終わっていいよ」
 黒板の前で隣のクラスの担任の若い英語教師が、自分のファイルや名簿をまとめながら言ったとたんに、教室の空気は動き出す。ノートをとったとかとってないとか、そういうのはどうでもいいのだ。財布片手に昼食を買いに行く生徒が廊下を笑いながら歩いていって、由紀は今日のお昼どうするのかな、と美里は思う。一応、お弁当を買うだけのお金はある。
 隣で塚田が鞄の中に筆箱や教科書を突っ込んだ。それでも相変わらず薄っぺらい鞄を持って、美里を見て「じゃな」と言った。美里もとっさに「ばいばい」と言う。
 それは一瞬のことで、今の言い方変じゃなかったかな、とか、早口すぎなかったかな、とかそういうことを後悔する必要がないように思えた。ともあれ塚田は、小さな声で、おう、と言って教室を出ていく。山下が「塚田ァ、じゃあなー」と大袈裟に手を振って、それにも、おう、と返していた。


「美里、美里」  家に帰って、自分の部屋に向かおうとすると、母に呼び止められた。なに、と返事すると、ちょっとこっちおいで、と言われる。
 母が何の話をしたいかは分かっていた。昨日のことだ。父に謝れ、と言いたいのだろうか。
 鞄をソファの脇に置くと、母は座って、と言う。美里は頷いてそのままソファに座った。そして、ふう、と静かに息を吐いてみて、お母さんとこうやって話をするのはいつぶりだろう、と思った。
 昔々のことには、よく母にも叱られて、リビングで正座で一時間お説教、なんてこともざらにあったのだけれど、だんだんお怒りをかわす方法を覚えた。そしてそのお説教はだんだん、一対一の話し合いに変わっていったのだけれど、少し照れくさくて、美里はどぎまぎする。
「でね」母が美里の隣に座った。「お父さんのことなんだけど」
「うん、分かってる」美里は頷いた。そうだよね、と母は呟く。
「お父さん、真面目だからねえ」と口元に笑みを浮かべて言う母に、美里は頷きながら「知ってるよそんなの」と返した。
「嫌なんだろうねえ、そういうの」あの人、心配症だから、と。
「そういうのって、ロックとか?」美里がつま先でカーペットの床を蹴飛ばしながら言う。
「そうそう。お父さん、昔やってたらしいから」
「は」
 間抜けな声が出る。「やってたって、何を」思わず母の顔を覗き込む。「バンド?」
「うん、やってたのよ、昔。ギターだったかしら、ベースだったかしら」
 え、え、え、と美里の頭がフル回転する。お父さん、バンド、お父さん、ギター、お父さん、ロン毛、お父さん、ベース……。ダメだ、一致しない、と小さく首を振った。
「本当に?」「本当よ」
 微笑んでいる母はなんだか混乱している自分を見て楽しんでいるようで、美里は「じゃあ、何であんなに毛嫌いするの」と言うので精一杯だった。
「それは、ねえ」母が躊躇う。「なんで、」と美里は急かした。
「自分が昔に書いた小説って、読みたくないでしょう?」
 突拍子もないたとえに、美里は一瞬、ん、となって、ああそうか、と思う。美里自身、小説を書いたことはないけれど、中学生のころの書いた作文なんて、読みたく、ない。
「え、待って」すでに話は終わった、とばかりにキッチンに向かおうとする母を呼びとめる。「お母さんって、小説とか書くの?」
 母はそれに一層微笑んだ。「そうよ、知らなかったでしょう」
 知らなかった、知らなかったよ。美里は心の中で、ははは、と笑う。お父さんのことも、お母さんのことも、お兄ちゃんのことも、塚田くんのことも、私は何も知らなかったよ、と。
 キッチンに戻った母が、冷蔵庫を開けながら、「まあ、厳しいくらいがちょうどいいのよ」と言うのが聞こえる。それはどうよ、と美里は言い返して、しかし母に「あら、いつもあんな音量で音楽聴いてるのに。うるさいくらいがいいんじゃないの?」と言われてしまい言葉に詰まる。

 呼び出し音が続く。出ろ、出ろ、と美里は念じる。プツ、と音が聞こえた。
「もしもし、」
 受話器から、少し掠れたような懐かしい声が聞こえた。兄の声だ。
「もしもし」美里は頭の中が真っ白になって、「あたしだけど」と言うので一杯一杯だった。
「ああ、知ってる」と受話器の向こうで笑い声。
「お兄ちゃん、さあ。……元気?」
 探り探りの会話になんだか恥ずかしくなる。兄は、なんだそれ、と笑い、あのメールのことだろ、と言った。
「悪いな、返事しなくて」まったく申し訳なさそうに言うので、元気そうだな、と安心する。
「違う」いや、違くないんだけど、と美里は少しでも電波をよくしようと、窓を開けた。冷たい風が入ってくる。網戸も開けて、身を乗り出すと三日月が見えた。
「うん、そう。じゃあ、どうしたんだよ」なんだか兄の声が昔より優しく聞こえる。
「あのさあ」しばらく考えてから、美里は躊躇いがちに言った。「お父さんが昔バンドやってたって知ってた?」
「ああ、やっぱり」と兄が答えて、美里は少しがっかりした。「へえ、気づいてたんだ」
「だって、俺の部屋のCDさあ」美里の心臓が、どきん、と鳴る。まるで美里が兄の部屋から勝手にCDを持ち出しているのを知っているかのような口ぶりだったからだ。「あれ、全部おやじの部屋から持ってきたんだぜ」
 その一言は脳天にガツン、と衝撃を与えて、美里は何を言っていいのか分からなくなる。「へえぇ、」としか出てこない。
 美里は一度大きく息を吸い、吐いて、また吸ってから、「じゃあさ」言った。「お母さんが小説とか書いてたって知ってた?」
「小説?」とすっとんきょうな声が聞こえる。美里は笑いを噛み殺した。「へえ、それはそれは」再び、兄の笑い声。「知らなかったな」

「ねえ、お兄ちゃん」
「なんだよ」
「もうさ、リスカ、は、しないよね」
「は、」
「――」
「あー、はいはい」
「――」
「しねーよ、するわけねーじゃん」
「――」
「あんな、惨めなこと、さあ」

 夕飯に父の姿は無かった。母は口を尖らせて、「二日連続、よ。明日の夕飯は気合入れて作って貰わなきゃ」と言った。美里は食べ終わってからそっと父の部屋に行き、ずっと兄の部屋、美里の部屋に置いたままだったCD達を、父の机に置いた。「ごめんなさい」のメモを残そうかと思ったが、やめた。